身近な歴史から大きな歴史に

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研究部歴史研究グループ 学芸員

石子 智康

  • 職員の所属・役職は、森のちゃれんがニュース発行当時の情報です。

石子慶治郎。写真1に見られるこの名前は、私の曾祖父にあたる人物です。この史料は、1935(昭和10)年8月1日現在の樺太庁職員を記載した『樺太庁職員録』であり、1935年当時、豊原区裁判所留多加出張所の裁判所書記として勤めていたことが読み取れます。この後は、樺太北部に位置する恵須取で代書業を行い、終戦後は北海道へ引き揚げてきたと聞いています。恵須取からの引揚者団体は、戦後に『恵須取在住者名簿』を作成しており、この名簿には曾祖父、そして祖父の名前も記載されていました。名前を発見したときには、私の先祖が樺太在住であったと強く実感したことを覚えています。曾祖父は私が生まれる前に他界しており、樺太へ移住した経緯や樺太での生活を直接聞くことはできませんでしたが、祖父や父から断片的に樺太に関しての話を聞く機会があり、樺太に興味を持ちました。このように私自身のルーツとして樺太を意識し、これまで樺太の歴史について研究してきました。

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写真1 『樺太庁職員録』昭和10年8月1日現在,樺太庁長官官房秘書課,1935.9.国立国会図書館デジタルコレクション(参照2023-11-27)※一部抜粋

樺太とは、現在はサハリンとよばれている地域であり、北海道の宗谷岬から約43キロメートル北に位置しています。1905(明治38)年の日露戦争の講和条約であるポーツマス条約によって、日清戦争で獲得した台湾に続き、日本の植民地となりました。ポーツマス条約以前には、日本とロシアの間で複数回にわたり樺太の国境線が変更されています。まず、江戸時代にあたる1855年の日露和親条約の条文には、「カラフト嶋に至りてハ日本国と魯西亜国との間に於て界を分たす是迄仕来の通たるへし」とあります。つまり、樺太は両国による雑居地と定められました。次に、1875年には、樺太千島交換条約が調印され、得撫島から占守島までが日本領、樺太はロシア領となります。その後、1905年のポーツマス条約によって北緯50度以南が日本領となりました。こうして日本の領土となった樺太には、終戦時には約40万人もの人々が生活する地域となりました。これまでに主な研究対象としてきた恵須取についてご紹介します。

恵須取は日本領有当初、小さな一漁村でしたが、1925(大正14)年に樺太工業の製紙工場が建設されたことにより、急激な発展を遂げた町です。恵須取の付近一帯には大平炭鉱といった炭田があり、終戦時には約4万人まで人口が増加し、樺太の中でも随一の都市となりました。都市として成長し、樺太内でも一二を争う人口を有していた恵須取ですが、主要な交通手段は船舶であり、冬季は結氷するという欠点がありました。写真2は、『樺太概要 昭和8年』にある「樺太交通略図」であり、この時期の交通状況を示している地図です。先述したように、恵須取は樺太の西海岸北部に位置していますが、西海岸の鉄道は樺太中部の泊居まで敷設され、久春内までが予定線となっています。つまり恵須取に他都市と結ばれた鉄道がなく、鉄道敷設の予定もなかったこととなります。このような交通状況の改善をはかるため、1933年恵須取町民は鉄道敷設の請願書を帝国議会へ提出します。以下が請願書の内容です。

樺太西海岸北部ニ於ケル代表都市建設地トシテ有望ナル各条件ヲ具備スル恵須取町ハ多年ノ懸案トシテ北部横断鉄道ノ敷設実現ヲ熱望シツツ(中略)樺太開拓上並ビニ軍事上ニモ重要地点タルヲ失ハス更ニ本鉄道ノ速設実現ハ樺太交通機関利用上ノ一大眼目トスル循環鉄道実現ニ至大ナル効果ヲ挙クルモノト確信シテ疑ハザル実情ニアリ依テ恵須取、内路、敷香ヲ結ブ北部横断鉄道ノ敷設アランコトヲ右及請願候也¹

請願書の内容からは、同じ北部に位置している敷香へつながる北部横断鉄道の敷設を目指していたことが読み取れます。また恵須取町民は、鉄道敷設の請願書とともに、恵須取港修築に関しても請願を行っています。樺太庁はこの請願に対して、大泊、真岡、本斗といった南部の港湾修築、他の鉄道路線の敷設を優先する見解を示しています。帝国議会の請願委員会では、樺太庁の見解を踏まえた上で、請願の実現は厳しいとしながらも、「此方面ニ於ケル人々ガ、大ニ此不便ナ地域ニ行ッテ奮闘シテ居ル人々ニ対スル将来ノ光明トシテ、国家ハ此請願ヲ認メテ置ク方ガ、幾何心強イ感ジヲ与ヘルモノダラウ」として、恵須取の人々に希望を与える意味で請願が採択されました²。その後、同年の樺太拓殖調査委員会による答申では、鉄道建設計画説明の項に「鉄道ハ庁鉄西海岸線泊居、恵須取間ノ延長工事(延長一七七・三粁、工費千四百六十三萬余圓)ヲ第一着手トシ」とあり、恵須取への鉄道敷設が計画に盛り込まれました³。しかしながら、鉄道は敷設されずに、終戦をむかえることとなりました。

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写真2 樺太庁編『樺太概要』昭和8年,樺太庁,昭和8.国立国会図書館デジタルコレクション(参照2023-11-27)※一部抜粋

今回は、鉄道敷設の請願書から恵須取町について紹介いたしました。日本史の大きな流れの中で、このような請願運動は、表面化することはあまりありませんが、請願書提出に関わる動きを通して、交通問題に課題を抱えていた恵須取町民の生きた姿を垣間見ることができます。今後も身近な歴史としてある樺太を、単なるファミリーヒストリーにとどまらず、歴史学としてさまざまな角度から研究を進めていきたいと思います。

  • 参考(引用)文献

    ¹樺太庁「請願書」(樺太庁『説明資料』、北海道立文書館所蔵)
    ²『帝国議会衆議院委員会会議録昭和編三一第六十四回議会昭和七年』、306頁
    ³「樺太拓殖調査委員会ヲ廃止ス」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A01200647300、公文類聚・第五十七編・昭和八年・第六巻・官職五・官制五(鉄道省・拓務省)(国立公文書館)