- 職員の所属・役職は、森のちゃれんがニュース発行当時の情報です。
著者プロフィール
2001年生まれ。福岡県糸島市出身。2024年から当館学芸員。専門は日本民俗学。写真は、渡島管内木古内町の佐女川神社にて(2025年1月13日右代啓視氏撮影)。
あるネット記事から
昨年(2024)11月29日のことです。偶然目にしたのは「江戸時代から続く伝統が存続の危機」と題したインターネットの記事。読んでみれば北海道の内容ではありませんか。そこで「伝統を受け継ぐ若者の出現に期待」の文字を見た私は、1時間後には書かれた番号に電話をかけていました。「水を浴び続ける行事です。大丈夫ですか。―経験ありませんが頑張ります。」「海に入って泳ぎます。大丈夫ですか。―陸上部でした。体力だけには自信があります。」「4年間結婚できませんが本当に大丈夫ですか。―はい。今のところまったく問題ありません。」。
こうして「出現」した若者の姿は、1月12日、道南の木古内町にありました。翌日から始まる神事に備え、初めて木古内の地を踏んだこの時まで、私にはまだ見たことのない「伝統を受け継ぐ」ことへの期待しかなかったのです。
民俗学を志して北海道へ
九州の山村で育った私。家の敷地には祠や石塔を祀り、隣接した神社では年間十数回の神事がありました。この日常が、都会に住む友人たちと少し違ったものだと気づいたのは中学生の頃でした。友人たちと少し違う、私の生活の当たり前。この「もやもや」を解決するための学問が、私にとって民俗学だったのです。
大学で民俗学を専攻する中、「儀礼・信仰・年中行事」という職員募集に惹かれて北海道に移り住んだのは昨年4月のことでした。馴染みのない地で、いかに調査研究を進めていくべきか、しばらく苦悩の日々が続きました。
そんな時に出会ったのが冒頭の記事でした。厳寒の津軽海峡の奇祭として多くのメディアで報道される佐女川神社寒中みそぎは、道内で高い知名度を誇ります。しかし私は、記事で初めてその存在を知ったのでした。
佐女川神社寒中みそぎとは
佐女川神社は、北海道でも長い歴史を持つ神社の1つです。今から400年前の寛永2年(1625)に建てられた祠が神社の起源とされています。
佐女川神社の神事である寒中みそぎは天保2年(1831)から続くとされ、木古内の人びとに長く伝承されてきました。1月13日から15日まで、4人の若者からなる行修者が社殿に籠もりながら、冷水をかぶる鍛錬(水垢離)を繰り返し行います。15日には津軽海峡でご神体を清め、1年の豊漁・豊作を祈願します。一昨年には道の無形民俗文化財に指定されました。
行修者は、未婚の男子が4年間務めます。1年目が弁財天、2年目が山の神、3年目が稲荷、4年目が別当と呼ばれ、ご神体を1体ずつ担当します。別当の持つご神体は、主祭神である玉依姫命です。参籠の間、行修者にはいくつかの禁忌が課せられます。互いを本名で呼ばない(役の名で呼ぶ)、四つ足の動物は食べない(鶏肉は許される)、「し」「す」の語を発さない(「じ」「ず」と発音する)、女性を社殿にあげない、といったものです。食事と3時間のみ許される睡眠を除けば、ほぼ1時間ごとに水垢離を繰り返します。
かつて行修者は町内の若者に限られ、地元の中高生がその多くを担ってきました。成り手不足から、初めて町外へ公募が行われたのは昨年の夏でした。しかし11月に入っても応募者はゼロ、まさに「存続の危機」に瀕していたのです。
寒中みそぎ・弁財天の民俗誌
こうして行修者になった私は、1月12日に初めて他の行修者と顔合わせをしました。山の神と稲荷は17歳、別当は26歳。23歳での弁財天は、比較的遅いスタートです。
13日朝、行修者は町内の床屋へ向かいます。ここで私は人生初の坊主姿となりました。水が髪に残ると凍るから頭を刈り込むのだ、別当からそう聞いて急に不安が襲ってきました。
18時から社殿で参籠報告祭。祝詞奏上が終わると、すぐに「オマニシクギダ(大澗の浜に鰊の群来だ)」の太鼓が鳴り響きます。さあ最初の水垢離です。褌姿の行修者は社殿横の石段を一列で下ります。水垢離用の舞台まで進むと、掛け声をあげて、別当から桶で冷水をかぶっていくのです。弁財天まで順に7の倍数で水をかぶり、2、3度ずつ繰り返すと、また社殿前まで石段を上っていきます。この時社殿の扉が閉まっていれば、再び背を向けて水垢離に戻るのです。同様の水垢離を、少なくとも2周、多いときには5~7周も繰り返します。ようやく社殿に戻ることが許されると、濡れた身体のまま神前に拝礼します。ここまでが1回の水垢離です。
1時間ほど経つと再び太鼓が鳴り響きます。そして、深夜2時まで水垢離を繰り返すのです。また社殿にいる間も横になることは許されず、仕事が課せられます。囲炉裏の火を絶やさないよう炭をくべること、参拝者の接待を行うことです。
外は氷点下、日付が変わる頃になると、より一層身に堪えました。水垢離中、行修者は身体の震えを止めなければなりません。気を緩めれば、すぐにOBたちから檄が飛んできます。この日はほとんど震えを止められず、食事も喉を通りませんでした。深夜2時、社殿内の布団で倒れるように眠りにつきました。
14日朝5時、太鼓の音で目が覚めます。間を置かず水垢離へと向かいます。この日は翌2時まで21時間水をかぶり続けなければなりません。水垢離を重ねても身体は震え続け、見かねた別当やOBから指導が入ります。社殿へ戻り囲炉裏で暖をとっても止まらない震えに、このままでは死ぬという感覚を覚えました。体温を上げるため、鶏肉や魚介を意識的に口にします。行修者が水垢離と間食とを繰り返す中、その姿を見ようと境内には多くの観客が集まってきました。花火も上がり、賑やかな声が聞こえてきます。しかし、行修者には関係ありません。石段を何度も往復し水垢離を重ねるなか、意識が遠のくのを必死に抑え、ただひたすらに耐え続けました。いま振り返っても、深夜2時に床につくまでの記憶は曖昧です。
15日朝5時、ついに3日目を迎えました。この日も朝から水垢離を繰り返し、10時に出御祭を迎えます。祝詞の後、白装束の行修者はご神体を手に、神職や役員に先導されながら列になって浜まで進みます。津軽海峡に面したみそぎ浜までは約1.5km、辺り一面は銀世界です。鮮やかな装束をまとった神職たちの笛や太鼓の音が、深い雪の中に響きます。浜へと進む長い列に向かって、手を合わせる人の姿も時折見られます。弁財天の重みを胸に感じつつ、吹雪の参道に連なる列の美しさに私も思わず息をのみました。
浜では既に大勢の観客が見守っています。再び褌姿になった行修者は、掛け声とともに一斉に海へ走りこみました。水をかく両腕の間にご神体を浮かべながら、沖へ沖へと横一列に泳ぎます。吐錠を咥えた口の隙間からは海水が入ってきます。こらえながら進んでいくと、別当の合図が聞こえました。浜へと戻ります。これを2度繰り返すと、行修者は波打ち際で向かい合い、4体のご神体を中央に置いて海水をかけて清めます。海から上がったときには、震えもほとんど止まっていました。この日の海水温は6℃。しかし、確かに津軽海峡は暖かく感じられたのです。
観客が取り囲んだ浜の舞台で水垢離を行った後、再び列になって神社へと戻ります。ようやく最後の水垢離です。この時だけはご神体を横に置き、行修者はご神体とともに身を清めます。
そして本祭です。観客の老若男女はみな社殿に上がり、奉納される松前神楽を行修者とともに楽しむのです。これで3日間にわたる日程が終わりました。達成感よりも安堵の気持ちでいっぱいでした。
伝承者と調査者の狭間に立って
我が身をもって「伝承者になる」経験から浮かび上がったのは、外側からの調査では見えないものの数々でした。詳細な伝承の内容を記録できたこと以上に、強烈な経験の中で抱いた自身の感情の揺らぎこそが、成果なのだと考えています。自身の感情に向き合うことが、伝承する人びとに目を向け、心を寄せて、「なぜ続けるのか」を考える民俗学的な理解の前提となるはずです。
加えて、以前から抱いていた1つの疑問―民俗学はいかに世のため人のために貢献しうるのか―に思いを巡らせる機会を得たと感じています。この問いに対する1つの答えは、時に伝承者、時に調査者として身を置きつつ、地域の人びとの伝承への思いを共有し、次の代へと繋いでゆくことです。
残り3年間、寒中みそぎの場で問い続けることが、地域社会にも調査研究にも資する、私なりの民俗学の実践だと考えています。