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著者プロフィール
1948年、北海道生まれ。久保寺逸彦先生に師事、アイヌ語・アイヌ文化を学ぶ。東京国立博物館に長く勤務。その後、文化庁、国立民族学博物館、北海道大学アイヌ先住民・研究センターに勤務。博士(文学)、東京国立博物館名誉館員。
今年度、早々のことです。わたくしの住んでいる自治体から後期高齢者に認定する旨の通知がきました。となると…ですね。
はやりのことばを使うと、その前に終活という、ことになります。わたくしのこれまでの仕事についての締めを心がける時期の到来と考えねばなりません。とはいえ後期高齢者にとってはなかなか難しいことではあります。
わたくしは「アイヌ絵」という資料群を核に、アイヌ史·アイヌ文化を学んできました。
「アイヌ絵」というのは、アイヌ民族の文化や風俗を描いた絵画作品群のことで、描かれた時期はおおむね18世紀から19世紀前半ころまでといっていいと思います。が、もちろん、それ以前の画例も含みます。そして描いたのはすべてシャモ(和人)。
なぜアイヌの人びとはみずからの文化や風俗を描かなかったのでしょうか。それはその宗教意識とも深くかかわってきます。アイヌの人びとには、描いたものがやがて悪霊となって祟りをなすという考えがあったといわれています。ですからみずから筆を執るということをしませんでした。
「アイヌ絵」はすべてシャモ目線で描かれています。シャモ目線でみるアイヌ文化は劣るもの、野卑なものといった感覚がほとんどといっていいでしょう。ですから現在のアイヌの人びとの中には「見るのは嫌だ」「気持ち悪い」といった感想をもたれる方が少なくありません。いってみれば差別感にあふれた「不快画」でもあるのです。
また、「アイヌ絵」という名称にしても学問的に定着したものではありません。「アイヌ風俗画」というひともいますが、風俗画とはその風俗を共有しているひとが自分たちの風俗を描いたものですから、アイヌ文化を画題としたものは風俗画の範疇にはないのです。
では、そうした「不快画」に属するものをなぜとりあげるのでしょうか。それはシャモ目線で描かれたなかに、アイヌ文化に関する貴重な描写や情報がないかをさぐり、それをアイヌ史やアイヌ文化誌の記述に寄与できないか、という思いがあるからなのです。いってみれば、シャモ目線の補正でしょうか。
そんな観点からいくつもの「アイヌ絵」をみてきましたが、結果的になにができたのだろうか、との思いから抜け出ることができません。でも、そんな分野にここまで足を踏み入れるきっかけとなった資料を紹介してみましょう。
それは、東京国立博物館の国宝『綾本著色聖徳太子絵伝』です。この絵は、聖徳太子の伝記を描いたもので、日本史にいう平安時代、延久元(1069)年摂津(今の大阪府)の絵師である秦致 貞(はたち てい)の作品です(全10面)。太子絵伝としては、現存最古のものとなります。したがって、中に描かれた蝦夷もまた現存最古のものです(図1)。
この絵伝のもととなった『聖徳太子伝暦』に、敏達天皇十(581?)年、聖徳太子が十歳のときのことです。蝦夷が辺境に兵をあげました。天皇はどう対応するかの会議をひらきますが、群臣たちは討伐の議論ばかりです。天皇は、かたわらに侍していた太子に意見をききます。太子は蜂起のおさを呼んで諭すべきだと進言します。そして呼ばれた、おさのアヤカスたちは大和の三諸山にむかい、初瀬川の水で口をそそぎながら未来永劫の忠節を誓います、という記事があります(これは『日本書紀』に拠っています。)。
この蝦夷たちを諭しているのがこの絵です。第2面の左上部にあります。聖徳太子とその従者たち。そして三人の蝦夷が描かれています。絵の具の剥落が多く、細部の描写はわかりません。ここではもっともわかりやすいふたりをえらびました。男性らしき人物が描かれています。上半身は裸のようです。左側の蝦夷は鳥羽の腰裳をつけ、右側の蝦夷は腰蓑をつけています。そして容貌はふたりとも総髪で、ぎょろ眼、ヒゲはありません。周囲の使者たちとは異なる異様な容貌です。また手を合掌のように組み、立膝に胡坐、はだし……など、明らかに異文化びととして描かれています。
これが現在に伝わる最古の蝦夷のすがたです。もちろん秦致貞は実際にこの人びとをみたわけではなく、おそらく伝聞にもとづいての描写だと思われます。なぜこのような描写がなされたのでしょう。わたくしは仏敵である邪鬼(四天王に踏まれている鬼たちがいい例です)を意識したもの、と考えています。このなかで腰裳に用いられた素材は18世紀のアイヌ文化にも認めることができます(図2、3)。
この最古の蝦夷像に関してはわたくしが昭和47(1972)年に報告したもの以外には論じられたものはないようです。理由として細部の描写がよくわからないことに加えて、やはり鑑賞の対象となる作品ではないことなどがあげられます。かかる作品・不快画をなぜ取り上げたのかというご批判はあるでしょうが、やはりシャモの蝦夷認識の早い例として無視することはできません。 アイヌ絵に関心をもっている若い世代がでてきて、アイヌ史を記述する立場でシャモ目線の不具合を指摘し論ずる、本当の意味での史料とし、アイヌ史の叙述に寄与できるのではないか、との思い。残念ですがいまだそうした出会いはありません。