自ら学校をつくる
──近代日本を生きたアイヌ民族の歩みをたどる

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アイヌ民族文化研究センター長

小川 正人

  • 職員の所属・役職は、森のちゃれんがニュース発行当時の情報です。

山辺安之助『あいぬ物語』から

サハリン(樺太)のアニワ湾に面した弥満別に生まれた山辺安之助(やまのべやすのすけ:1867~1923)は、白瀬矗の南極探検(1910~12)に参加したことや、金田一京助が編者となった著書『あいぬ物語』(博文館、1913年)などで、その名を知る方もいらっしゃるのではと思います。

『あいぬ物語』は、山辺が語った自叙伝を金田一がまとめたものです。その後半では、日本統治下となった樺太で、彼自身が特に力を入れて取り組んだこととして、子どもたちのための学校を設けようとした経緯にページが割かれています。 少し長くなりますが、その一部を紹介します。

こういう世になって、今日では、樺太も日本の領土になって了ったから、日本の民政も布かれた。そこで、何とかして、土人達の小供たちに読み書きの出来る様にしたいものだ、学校を建設したいものだと思ったから、役人を見る度に私は話しをした。

〔中略〕

けれども当時といふものは、役所が始めて建ったばっかりであるんだから、日本の小供の学校でさへ、まだ出来ない位だから、役人たちも、斯ういう。
「当今は、まだ、土人の小供等の学校を建てゝやりたいのではあるが、民政署の方で今はまだ、そこまで手が届かないから、まあ待っ居れ。」
と云われる。

私の考では、本当に役人衆の云はれるのも其は、尤もだとは思ふものの、教育ばっかりは、どうしても早く小供の時に覚える様に、施してやりたい。〔中略〕故に色々様々に苦心をして斯う、考えた。樺太には、材木は沢山にあるから、材木は若い者等に斫らして、校舎に私達が建てさえすれば学校は出来上る。それから学校で使用する雑費と教員の月給の金位は、魚が沢山居るから網でも土人全部で食料の魚を捕る時分に、一網でも二網でも余分に引けば、学校で使ふ雑費や教員の給料の金位は出来ること易々たるものだろう、と考えたから、何はともあれ、早く学校を設立しようと思った。此事は、他の色々六ヶ敷(むつかし)い政務を見ている役人の忙しい中を無理にさせようと思ったって、駄目だから、唯教員は、私達一同の、土人輩の中には無いから、教員だけを役人衆から周旋して貰ひさへすれば結構だと思った。
(『あいぬ物語』より。引用は2021年に青土社から刊行された「新版」によりました。)

こうして山辺は、1906(明治39)年、先ず私設の学校を開設します。

このとき山辺が目指した「学校」は、アイヌ民族がアイヌ文化のもとに学ぶ学校ではなく、日本の公教育のもとでの学校でした。そしてこの当時、アイヌ民族が自ら学校の設立を求めた取り組みは、樺太だけでなく北海道のいくつかの地域で見られたことなのであり、これらはおしなべて、日本の公教育のもとでの学校を目指すものだったのです。

なぜ、アイヌ民族がこのような学校の設立に取り組んだのか。学校をあえて自分たちで設立することを目指した背景にはどのような歴史があったのか、そして、学校を設けることで、目指した未来を掴むことはできたのか──こうした背景や経緯を知ることは、明治以後のアイヌ民族が歩まなければならなかった時代のすがたを、より深く知るための大事な手がかりになるのではないか。

これが、ここ数年の私の調査のテーマになっています。

「学校をつくる」―その歴史的な位置と意味

樺太での学校の設立に至るまでの山辺の足跡は、この主題を考える上での大事な示唆を与えてくれます。

サハリンは、アイヌやウイルタなどの諸民族がそれぞれの暮らしを営んできた土地でした。しかし山辺が生まれた19世紀の後半には、南からは日本、北からはロシアという二つの国家が進出し、お互いの権益や領土をあらそう時代になっていました。両国は1855(安政元)年に日露和親条約を締結、この島を両国の雑居地と定めました。山辺の生まれた南部のアニワ湾沿いには日本の商人が漁場経営に乗り出し、アイヌの人々もそこで働かされるようになっていたのです。

日本が明治時代を迎えた1875(明治8)年、日露両国は千島樺太交換条約を締結。この結果、サハリンはロシア領とされることとなりました。そのとき、日本の開拓使は、樺太のアイヌの人々に対し、日本に渡航し日本で暮らすことを強く求め、約二千人のうち841名が北海道の宗谷に移住させられ、さらにその翌年、石狩の対雁(江別)まで移住させられます。この841名の中に、幼い山辺安之助がおりました。

山辺らは開拓使が治める北海道での暮らしを始めることになったのですが、もともとが本意ではないかたちで故郷を離れてきたことと、移住から数年後にはコレラなどの伝染病で多くの犠牲者が出たことなどがあいまって、人々はやがて続々とサハリンに帰郷します。山辺も、1893(明治26)年に、仲間らとともにサハリンに帰りました。山辺らは、ロシア領となっていたサハリンで暮らすことになります。

さらに1905(明治38)年、日露戦争の結果、サハリン南部は日本領となり樺太庁が統治することとなります。山辺は、こんどは日本の統治下の樺太で生きていくことになりました。

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山辺は、樺太アイヌの伝統文化が暮らしの中に当たり前にあった時代に生まれつつ、日本やロシアという国家の支配が強まり、それらに自分たちの生活が翻弄される、それも、社会のしくみや社会の主流となる文化そのものがごっそりと変わっていく、そういう時代を生きたことになります。

このような厳しい時代を生き、過酷な現実の中で暮らしてきたからこそ、山辺は、自分たちの子どもの世代には、これから自分たちが生きて行かねばならない社会の中で必要な教育をこそ、と判断したのだと思います。それは、自分たちにとって愛着のある自分たちの文化を敢えて遠ざけるという、たいへん厳しい判断であり、だからこそ、切実なものだったと思います。

行政がなかなか動いてくれない、ならば自分たちの手で学校を、という山辺の行動は、そのような切実さの現れだと思うのです。

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写真1 山辺が学校を設けた落帆(1935年)

学校のゆくえを調べ、考えること

アイヌ民族が自ら学校をつくろうとした事例は、この山辺の例のほか、樺太でも、また北海道でも、いくつもの記録を確認することができます。

下の写真は、新冠町の姉去(あねさる)にあった学校の碑です。この地に生まれ自ら牧場を営んだ古川アシンノカル(1857~1925)が、やはりこれからの自分たちの子どもに必要な教育を、ということで設立した私設の学校が出発点でした。

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写真2

※写真2について

写真2の碑には「姉去土人学校(姉去簡易教育所)跡」としるされています。

「姉去土人学校」とは、1896(明治29)年に古川アシンノカルが設けた私立学校のことを指すと思われますが、「土人」という語は、明治期に開拓使がアイヌ民族を行政上区別する際の呼称として定めた「旧土人」という語が、主に和人のあいだや行政のなかで、「土人」と略されて用いられるようになったものと考えられます。このような呼称には、アイヌ民族に対する差別的な意識が込められており、主にアイヌの子どもたちが通う学校は、各地で、実際の学校名とは関わりなく、和人たちから「土人学校」と呼ばれていました(姉去でも、「姉去簡易教育所」になっても、「姉去尋常小学校」になってからも、「土人学校」という呼称がまかりとおっていました)。アイヌの人々からは、自分たちの子どもが通う学校だけがこのような呼称で呼ばれ差別的な扱いを受けることに対する抗議の声があがっていましたが、なかなか改められることはありませんでした。

写真2の碑が、敢えてこの「土人学校」の文字をしるしているのは、このような当時の歴史、社会のすがたを伝えるためだと考えられます。

しかしこの姉去の学校は、のち公立の簡易教育所をへて尋常小学校となったものの、1916(大正5年)、移転することとなります。近くにあった宮内省の新冠御料牧場が拡張され、姉去のアイヌの人々はここから立ち退かねばならなくなり、代わりに用意された平取の上貫気別(かみぬきべつ:現在の同町旭)への移住を強いられたので、学校もそれに伴い上貫気別に移転したのです。ここに碑だけが残っている背景には、そのような歴史があるのでした。

人々は、なぜ日本の学校を、日本の教育を求めることになったのか。そうして求めた学校は、教育は、人々が求めたものになったのか──北海道やサハリンの各地の歴史を、一つ一つ、調べていきながら、それぞれの事例に即して、考えていくことが、先ずは大事だと考えています。