オムシャのジオラマ

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研究部歴史研究グループ 学芸主査

東 俊佑

  • 職員の所属・役職は、森のちゃれんがニュース発行当時の情報です。

総合展示第1テーマ「北海道120万年物語」では、北海道に暮らした人びとの19世紀までのあゆみ(歴史)を紹介しています。このなかにオムシャという儀式の様子を再現したジオラマを置いています。

オムシャとは、以前に出会った人に再会した際に物を贈り合うアイヌ民族のあいさつの儀式が変化したものとされています。江戸時代の前期にあたる17~18世紀のオムシャは、交易のために蝦夷地のアイヌ民族の村を訪れる松前藩士とアイヌ民族が行う儀式でしたが、江戸時代後期の19世紀には、アイヌ民族が守らなければならない法度や決まりごとを和人(松前藩や本州の人びと)が一方的に読み上げ伝える政治的儀礼になったとされています。

総合展示室にあるジオラマは、北海道開拓記念館が1992(平成4)年に常設展示をリニューアルした際に制作したものです。オムシャとはどんな儀式なのかを一目で理解できるので、2015(平成27)年4月の北海道博物館のリニューアルに際しても、設置場所を移動し、見る高さを低くし、引き続き展示しています。

このジオラマは、1808(文化5)年にサハリン(樺太)のクシュンコタンという場所で、会津藩が執り行ったオムシャの様子を再現したものです。会津の画家・遠藤香村が描いた『蝦夷実景』という絵巻物の中の絵画を元にしています。ただし中央の建物は、旧下ヨイチ運上家(国指定重要文化財)を参考に再現しています。

1806~07(文化3~4)年、ロシア船がクシュンコタンやエトロフ島の和人関係者の建物や船、アイヌ民族の家や庫などを襲撃し、家財道具や武器・防具、古文書などを接収したうえで焼き払う事件が起こりました(フォストフ事件、文化露寇などと呼ばれています)。この事件を受け、江戸幕府は会津藩にサハリン(樺太)、仙台藩にエトロフ島の警備を命じました。1808(文化5)年のオムシャは、会津藩の軍勢約700名がクシュンコタンへ押しかけ、物騒がしい雰囲気のなかで執り行われたものでした。

周囲に会津葵の紋を入れた幔幕を張り、鉄炮や弓矢、甲冑や旗指物などを並べ飾り、藩士が威儀を正して居並ぶ情景は、「武威」を演出していて非常に威圧的です。建物の前に横一列に並ぶ7人は村の長老たちで、真ん中の最長老と思われる人物は黒の羽織、その他の長老たちは色鮮やかな和製の着物を身につけています。この着物は、和人が長老たちに与えたものです。

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オムシャのジオラマ 総合展示第1テーマ「北海道120万年物語」の「3 蝦夷地のころ」より

長老たちの前に置かれているのは、酒樽、タバコ、刀の鍔や刀身です。右側には大勢のアイヌの人たちが座り、そのまわりには山積みされた米俵や酒樽が置かれています。オムシャとは、和製品をアイヌの人たちに振る舞う儀式でもありました。

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酒樽、タバコと鍔・刀身

年代が降ると、オムシャは「夏ヲムシヤ」や「秋味ヲムシヤ網卸御祝儀」などの名称で年に数回執り行われる蝦夷地各場所の年中行事の一つとして、漁事の際の慰労的色彩の強い儀礼となります。オムシャを主催するのは、各場所の経営を任されていた商人(場所請負人)の配下の者たちで、その拠点施設である運上家や会所でした。「通詞」と呼ばれるアイヌ語通訳が、幕府の定めた法度を読み上げ、アイヌの人たちに言い聞かせるのは相変わらずのお約束事でしたが、その後に催される酒宴の方がオムシャのメインイベントでした。

これまでアイヌ民族の和人に対する政治的な服属儀礼の側面が強調されてきたオムシャですが、場所請負制下のアイヌ社会に関する古文書の研究などが今後進むと、見方・捉え方が大きく変わってくる可能性があります。