再発見 音吉さんのイナウ

AUTHOR

研究部アイヌ文化研究グループ 研究職員

大坂 拓

  • 職員の所属・役職は、森のちゃれんがニュース発行当時の情報です。

イナウはアイヌ民族の儀礼具の一つで、神々への捧げものに用いられるほか、それ自体が御神体となる場合もあります。地域・家系による違いが認められるため、集団間の系統関係を把握するのに役立つと考えられ、1930~70年代に数多くの研究者によって精力的に収集されました。当館では、今年から所蔵資料全点の確認を進めています。

◇

作業を進める中で、「稚内アイヌ音吉作(関正氏寄贈)H.KONO」と書かれた資料(写真1)が見つかりました。この記載は、稚内の音吉さんが作ったイナウを地元の関正さんが収集し、のちにアイヌ文化研究者の河野広道氏に寄贈されたことを示しています。関さんが1932(昭和7)年に聞き取った記録によれば、音吉さんは礼文島生まれで稚内市を経て豊富町兜沼に移り、当時76歳*1。狩猟の名人であり、和人入植者を支援したことでも知られています。1871(明治4)年の利尻島の名簿に「同居男ヲトキツ」の名が見えますから(写真2)、一時期、利尻に居住したこともあったようですが、いずれにしても宗谷周辺の生まれ育ちに違いありません。

画像
写真1 音吉さんのイナウ(全長62.4cm)
画像
写真2 「明治四年当藩支配所調書」(北海道立文書館所蔵)

宗谷地方のイナウはこれまで、河野によるイラスト1点が広く知られてきたのみ*2。その実物が職場の収蔵庫に埋もれていたのは大きな驚きでした。

◇

宗谷地方のアイヌ文化は、海峡を挟んだサハリンアイヌと近いと推測されることもあるなか、このイナウの特徴が美幌や足寄、名寄など道東・道北地方の資料とよく類似していることは意外でした。もっとも、それが古くからのこの地域の特徴だったと即断することもできません。利尻・礼文両島のアイヌ民族は1800年頃に伝染病の流行によって激減しました。その後、宗谷からオホーツク海沿岸の場所請負人となった藤野家は、ニシンをはじめとする水産資源が豊富な宗谷地方での労働力を補うため、紋別~常呂のアイヌ民族の集落から労働人口の約半数を動員し、そこに働き口を求めて出稼ぎする人々も加わる状況が生じていました*3。

道東・道北の資料との類似性の背後には、藤野家の漁場経営のもとで、サハリンとの間よりはるかに高い頻度の人間の移動がオホーツク海沿岸のルートに生じていたことが影響しているのかもしれません。19世紀の歴史的動向の中で、18世紀以前の集団関係を上書きする形で新たな地域圏が形成されていた可能性もあるのです。

◇

ところで、これほど重要な資料が、なぜ長いあいだ広く知られずにいたのでしょうか。実は、北海道開拓記念館時代の1981年に刊行された資料目録『民族Ⅰ』には、本資料は豊富町収集と記載とされています。当時の担当者は、資料に記された「稚内アイヌ音吉」が豊富町兜沼で晩年を過ごしたことで著名な人物であることに気付き、目録にその結果を反映したのです。しかし、こうした経緯は歴代の職員に引き継がれず、結果として当館職員ですら、資料そのものを手に取るまでは作者に関する情報を知ることができなくなってしまいました。

資料に伴う情報を分かりやすく整理し、個人情報などに配慮しつつ整備公開していくことで、このような資料の埋没を防ぎ、アイヌ民族の歴史をより鮮やかに明らかにするための基礎を充実させていく必要があります。

  • その他:注

    *1 藤沢隆史他2017「関正フィールドノート(1)」『利尻研究』36:73-82による。年齢は諸説ある。
    *2 青柳信克編1982『河野広道ノート民族誌篇1』北海道出版企画センター
    *3 谷本晃久2020『近世蝦夷地在地社会の研究』山川出版