日露戦争の戦地からのたより

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研究部歴史研究グループ 学芸主査

山田 伸一

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激しい戦闘のなか多くの兵士が死傷した日露戦争(1904~05年)。札幌郡の野幌屯田兵村(現在の江別市野幌)から出征した湯谷元蔵が父親に宛てた2通の軍事郵便は、戦地の様子や出征兵士の思いを伝えます。

一通目は1905(明治38)年1月10日付(収蔵番号15304)。4日午前に「ダルニー」(大連)に上陸し、8日に旅順から1里半の小柳家屯に無事着いたことをまず知らせます。大激戦地だった旅順のロシア軍が降伏したのは1月1日。旅順陥落をダルニー港の沖で知らされ、船上の一同、万歳を唱えた、と記します。

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写真1  1905(明治38)年1月10日付の手紙(収蔵番号15304)。 葉書ではなく、横浜奨兵義会という団体が作製した軍事郵便のための用紙に記す。折って封をすると封書大になる。

戦闘の様子は上陸後に聞いたのでしょう。二〇三高地の戦闘で自分が属する第7師団第28連隊も存命者わずかという惨状だったことを記したのに続き、自分たち第三回の補充兵の旭川発が5日ほど早ければみんな戦死していただろうなどと話し、何より幸いのことと喜んでいる、と正直に記します。

1分間に180発も発射する機関砲のために多くが戦死したのだ、とあるのも、この戦闘の残酷な実態を一兵士がどう受け止めたかの記録として貴重でしょう。

もう一通、3月10日付の手紙は、自身も戦闘をくぐり抜けた後のものです(収蔵番号15305)。

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写真2 同年3月10日付の手紙の追伸部分(収蔵番号15305) 。6日に戦死した「村岸兄君」とはその2日前に会って、小遣いをもらい、水筒の酒を飲んで語り合ったのが「ワカネデアリ升タ」(別れでありました)。

2月27日から戦闘に参加、3月9日に奉天総攻撃を始め、10日午前陥落、とあります。「自分ハ弾丸ノ中ヲ無事ニクヾリ出テ神之御守ヲ以テ負傷等モ致サズ実ニ仕合能キコトト思居候」と、自分の無事を神が守ってくれたおかげ、と記す心情は、どれだけ死傷者がいたかを読めば無理からぬと思えます。連隊長は行方不明、大隊長は負傷、小隊長は戦死、下士以下は20名余戦死、80名余負傷、残るは70名余だけ。15名いた自分の分隊でも3名しか残らなかった、というのですから。

いったん文面を締めくくってから、追伸として同じ野幌兵村出身者についての情報を、一人一人の名前を挙げて書き足しています。3名戦死、1名負傷、無事は自分以外に2名だけという厳しさです。

これらの手紙を読むと、1930・40年代の軍事郵便と比べて、書きぶりが率直だな、とも感じます。所属部隊の移動経路や今後の予定、戦闘に遭遇せずに済んだ幸運への喜び、などは、日中戦争やアジア太平洋戦争の頃には書くのがはばかられたのではないかと思います。検閲の有無の違いでしょうか。