大漁(大量)のニシンを肥料に加工する道具

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北海道研究センター(人文系) 副センター長

会田 理人

  • 総合展示第3テーマ「北海道らしさの秘密」の前半は、「自然の恵みとともに」と題して、北海道の代表的な産業の歩みを紹介しています。今回は、19世紀の終りから20世紀の初めごろ、北海道の漁獲高が年産70万トンから100万トンに達していた時代に、その漁獲高の約7割をも占めていたニシンを加工する道具と技術を紹介します。

春。4月の上旬から中旬にかけてが、ニシン漁の最盛期でした。大漁になると、手ぬぐいや酒、餅などが配られるなど、漁場は多いに賑わったといいます。

大量に漁獲されたニシンですが、食用としての身欠きニシンに加工されるのは、全体から見るとごくわずかでした。冷凍技術が確立していなかった時代、新鮮なニシンを遠方に流通させるのは難しいことでした。そのため、漁場では、鮮度のよいものを身欠きニシンに加工し、捕獲後に時間が経ってしまった大量のニシンを肥料に加工していたのです。

加工品のなかでも、「ニシン粕」が代表的な商品でした。「ニシン釜」と呼ばれる大きな鉄釜で煮たニシンを、「搾さく胴どう」という圧搾器に入れて蓋をし、上から下に向けて圧力を加えて水分・油分を搾り取ります。充分に圧搾したのち、圧搾器の中に残った身(=粕)を取り出して、干場で細かく砕いて乾燥させました。乾燥させた搾しめかす粕を、20〜25貫(75〜94kg)の俵装にして完成です。


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ニシン粕を造るための道具 ニシン釜(左)と搾胴(右)

ニシン釜は、高温で溶かした鉄を型に流し込んで製造しました(これを鋳造といいます)。口の大きさは約140cm(四寸六尺)、深さは70〜80cmぐらいが標準的でした。

かつて、富山県高岡地方でこのニシン釜が盛んに製造されていました。この町のニシン釜を製造していた鋳造所の一つは、北海道や樺太に多数の取引先をもっており、主力商品である搾粕製造用の大型の鉄釜を多数販売していたことが、残された1920年代の帳簿からわかっています。

高岡鋳物工場の賑わい振りは、『高岡新報』1920(大正9)年4月14日夕刊第2面記事から垣間見ることができます。ここでは、北海道でイワシが豊漁で、イワシを原料とする搾粕製造用の鉄釜の需用が高くなり、製造に力を注いでいること、鋳物工場が建ち並ぶ千保川岸から鉄釜を舟で出荷して、河口に位置する伏木港へ搬送していること、同年の生産個数を約5,000個、一個あたりの売上金額を50円と仮定して、総額25万円の売上が見込まれることを報じています。

ニシン同様にイワシも搾粕に加工されていたこの時代、搾粕製造用の大型の鉄釜が高岡で大量に製造されていたことがわかります。

搾胴は、古いタイプは頑丈な木製で、上口が広くて底が一回り小さい、逆台形状をしています。頑丈なのは、蓋をして上から長時間圧力を加える必要があったためで、上口が広い逆台形状をしていたのは、中の身(搾粕)を取り出すときに、搾胴ごと上下をひっくり返して取り出しやすくするためでした。


北海道のニシン漁業の発展、ニシン粕などの肥料の大量流通の背景には、北海道外における農業の発達や、それにともなうニシン粕需用の高まりがありました。

ニシンを原料とした肥料は、ニシン粕のほかに、胴ニシン、笹目(エラの部分)、白子などがありました。これらの肥料は全国へ出荷され、農家の肥料として利用されていきました。

徳島の藍、愛知や岡山、山口では綿花、和歌山や愛媛のミカンなど、商品作物の栽培用の肥料としてニシン粕が使われました。胴ニシンは富山など北陸地方に多く出荷され、米づくりに使われました。